小説の感想やあらすじを述べたり共有することは、邪道なのかもしれない。保坂和志さんの「季節の記憶」での気づき。

私は芸術感度が高い方ではないことに加え、
最近は仕事と子育てでいっぱいいっぱいなので、
映画を見たり、小説を読んだりということをほとんどしません。

たまに、ある作家さんの1作品に感動を受けて、続けて何作か読むことはあっても、
それで満足したらまたしばらくは遠ざかります。

なので、「いつか小説家になりたい」と趣味で小説を書く夫の気持ちが全く分かりませんでした

 

作家は何のために小説を書くのか

真似をして私もちょっと書いてみよう!と思ってやりかけたことが2回ありましたが、
いずれも原稿用紙1枚分を超えたところで辛くなり、
あまりに不自然な展開に気持ち悪くなり、ダメでした。

小説って何のためにあると思いますか?
何のために書かれていると思いますか?

私はずっと、エンターテイメントとして楽しませるためだと思っていました。
でも、夫に「なんで小説書くの?」と聞いた時の答えは「伝えたいことがあるから」でした。

伝えたいことが小説でないと伝えられないのだ、と。

 

小説でしか伝えられないことがある

机の上の鉛筆が必要で、近くにいる人に鉛筆を取って欲しい時は、
「机の上の鉛筆取って!」
の一言だけで伝えたいことが伝わります。

でも、小説ほどの展開や長さがなければ伝えられないメッセージがあるのだそうです。

目からうろこでした。

 

保坂和志さんの「季節の記憶」は小説の概念を変える

そんな夫がこれを読むと小説に対する概念が変わると教えてくれたのが
保坂和志さんの「季節の記憶」という本です。

この小説、1冊読んでも、何も起こらないんです。

小説とは何かメインとなる出来事があり、
それをとりまく人たちの心理描写が刺激的で
想像を超える展開を楽しむものだと思っていたのですが、
この小説はいつまでたっても何も起こらず、日常の描写だけで終ります。

最初は自分の読解力を疑いました
何か描かれた出来事を読み取れなかったのかもしれない…と

 

でも、そうではなく、夫曰く、
何気ない日常の描写だけから、保坂さんが伝えたいことがあり、
この形式になっているのだ、だそう。

「で、その伝えたいことってなんなの?」
と聞くと、わかってないね、と呆れた顔で言われました

それをわかるためには1冊読み通さないといけない、と。
伝えたいことを伝えるために必要だから、この1冊があるのだから、と。

なるほど・・・。
なかなか時間のかかるコミュニケーションです。

 

小説もアートも映画も、メッセージを伝えるためのもの

そういえば昔美大に行った友達が言っていました。
「世の中を見渡して、おかしいと思うこと、課題だと思うことを分析して咀嚼して、それを作品に落とすんだ」と。

失礼ながら、そして恥ずかしながら、バランスよくキレイなものをつくるのが芸術家だと思っていました、ごめんなさい。

いまだに私はアートに疎く、キレイだと思うかどうかくらいの基準しか持てていませんが、
小説と同じく、アートにも伝えたいメッセージが込められているんです。

 

「万引き家族」で第71回カンヌ国際映画祭最高賞のパルムドールを獲得した是枝裕和監督が、
この作品は一人の少女に向けて作ったものです、と話をされていました。
映画も、エンターテイメントや刺激的なものにすることが目的ではなく、
誰かに伝えたい強烈なメッセージがあって、それを込める対象として存在する。

 

感じ取ったメッセージを再度違う形で明文化する必要はない

小説もアートも映画も、作り手のメッセージが込められているのだと思うと、
不器用に真面目な私は、作り手のその意図をきちんとくみ取らなければ、と
必死で理解しようとしてしまいがちですが・・・。

読んだ後、観た後に、具体的に言葉にできなかったとしても
何かが心の中に残ったり、何かのタイミングで思い出して何かとつながったり、
ぼんやりしたものでもよいのかな、と思います。

だって、伝えたいことを伝えるための200ページの本、2時間の映画なんです。
一言二言でまとめて、それが正しいとも適確とも思えません
もやっとしていて当然なのだと思います。

コメンテイターの人のコメントやあらすじ紹介と、
実際に自分が体験して感じることが違うことってよくありませんか?
そういうことだと思います。

 

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