かつて神童と呼ばれた天才少年の今を知り、自分の価値化をしっかり持てる大人に育てたいと思った話

先日、かつての神童が今どうなっているか、の記事を読みました。

かつて神童とよばれ日本で初めて飛び級で大学に入った少年の今

先日、かつての神童が今どうなっているかの記事を読みました。

日本で初めて飛び級で大学に進学した、かつて神童と呼ばれていた男性は、大学院時代に結婚し、その後研究職についたのですが、収入の少なさや雇用の不安定さのために辞めて、今はトレーラーの運転手をされているそうです。

雇用は安定しているし、月に30~35万円もらえるし、家族との時間は持てるので満足している、と。
家庭教師もして教える仕事はしているそうですが、それがメインではないし、未練がない、と。

想像していたのとは違う現在に、2回驚きました

 

1つめの驚きは、現在の職業が特異なものでも希少なものでもなかったこと

子どもの頃に神童と崇められたのであれば、大人になっても到底一般の人には手の届かないような職についていることを想像してしまいます

決してトレーラー運転手がダメだとか、職業をランク付けするつもりはないのですが、トレーラー運転手は免許さえ取れば比較的誰でもなれる職業だと思います。

そうではなく、どれだけ普通の人が頑張っても到底手の届かないような…例えば年に数人なれるかどうかの宇宙飛行士とか、そういったとても特別なものを想像してしまっていましたため、そのギャップに驚きました。

 

2つめの驚きは、彼が現状にとても満足していること

驚きというより関心・尊敬に近いかもしれません。

私のような凡人だと、すこし他の人より秀でたところで評価されると、その後もそうでなければならないと思ってしまいます

私は小学校時代は学年でトップの成績でした。
成績が良いことを褒められると”トップでない子たちにはなしえないことをしなければならない”というプレッシャーがあり、本当は別に誰も期待していないのに、もっと「すごい」と言われなければ!というストレスを勝手に感じていました。

でも、彼は周りが何といおうと自分自身の価値基準をしっかりと持っていて、ぶれない

どんな状況にあっても好きなことができれば、大切なものを守れれば、それでいい。
好きなことや興味のあることを探求した結果、天才と呼ばれる域に達て周りが騒いだとしたとしても、動じない
望む生き方が比較的一般的なもので周りがとやかく思っても、本人は天才と呼ばれるのと同じくらいの価値をそこに見出すことができる

単純に、すごいな、と思いました

 

「できる限りいい大学、いい就職先に」という固定概念は崩れ始めてはいる

私が学生の頃は、とにかくできる限りいい大学(偏差値の高い大学)に行きなさい、
そして、できる限りいい会社(お給料が高くて安定していて社会的認知度が高いなど)に行きなさい、と言われて育ちました。

それが人生の幸福度の指標でもありました

でも、昨今その価値基準が崩れ始めていると感じます。

大学は偏差値だけでなく、何をどんな風に勉強できるのか、生きる力を身につけるためにどんな経験をさせてもらえるのか、就職のサポートはどれくらい手厚いのか、を考える高校生が増えています。

1つの会社で働き続けるという終身雇用の前提が崩れかけていて、昨日までの流行りが明日も流行るとは限らないという、ものすごいスピード感で市場が動いています
一昔前にはなかった職種もどんどん増えて、しかも、それが儲かりステイタスをどんどん高めていく時代

今現在安定している会社だけでなく、見通しの立ちづらい中でも自分の市場価値を高められる仕事ができる会社に注目が集まり始めています。

幸せの指標が多様化している

勉強ができる子が必ずしも偏差値の高い大学に行くとは限らない。
偏差値の高い大学を出た人が、いわゆる一流企業を選ぶとは限らない。

それは、市場の変化の激しさもありますが、幸せの指標が多様化しているからなんだな、と思います。
お給料がよければいいじゃない、という時代もありましたが、今はそれよりもワークライフバランスが重視されています。

お金がもらえても健康を損なっては意味がない。
家族との時間を持てないくらい働いて、結局家庭が崩壊しては意味がない。

自分の人生の価値をどこに置けば幸せになるのか。

学歴やお給料以外のところに人生の幸せを見出す人が増えていると感じます。

 

他者がどう見るかではなく、自分がどう感じるかをとらえられる人に

私が仕事を辞める決断をながらくできなかった1つの理由が「プライド」でした。

早稲田大学を出て、外資系コンサルに就職し、一部上場企業に転職した、という事実に対して「家庭とのバランスを保つためにフリーランスになります」というのはなんとなく負けな気がしてしまっていました。

周りがどう見るか(負けたのねと思われること)を気にするがための、本当に邪魔なプライドでした。

こんな私でさえこだわりを持ってしまったのに、かつての天才少年は、過去の栄光があっても、人より秀でた知能があっても、それを特段生かす必要・機会のない職業につき、幸せを感じている。

それこそまさに、天才的な自分を見つめる価値観の持ち主だなと思いました。

一般的にどう考えられているのか、周りがどう思うのかを気にせず、自分にとっての幸せをきちんと見極められる人になりたいし、そういう風に子どもたちにはなってほしいです。

 

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