あおたろりずむ

「気ぃ使いぃ」な皆さん!人からの評価を気にしないで自分の価値観で動きましょ!

関西弁で言うところの「気ぃ使いぃ」とは

関西弁で言う「気ぃ使いぃ(きぃつかいぃ)」にバッチリ該当する単語は標準語にはないと思います。
「気ぃ使いぃ」は周りの人に気を使いすぎる人、という意味。
気遣いのできる人、って一般的には誉め言葉として使われますが、「気ぃ使いぃ」はちょっと違います。

ちょっと過剰に周りに配慮しすぎやねん!とか、
そこまでやられたら逆に窮屈やねん!とか、
もうちょっと自分の意見ないんかい!とか。
そんなニュアンスが含まれます。

 

「気ぃ使いぃ」はしんどい

私もよく「あんたは気ぃ使いぃやからしんどいやろ」と言われました。
はい、しんどかったです。

何かのイベント企画の進行役を任されたとしたら。
これをやったらAさんはどう思うかな、他にもっとAさんが心地いいやり方はないかな
でも、Bさんにとっては違うやり方の方がいいんだよな。
みんなが楽しくできるように、折衷案を取るとしたらどうなるかな…。

常にこんな感じ。
自分の感情は後回しです。
自分にとってはやりづらかったり、好きじゃないやり方でも、周りがいいと思うならそれでやる。

自分がいいと思うのとは違うところに結論を導くので、bんです。
結論が出てからも、自分は好きじゃなかったりやりづらいものだったりするので、進めづらい。
何よりも、周りへの配慮で気疲れしていました。

自分の意見をもって、ゴリゴリ推し進める人を見ると羨ましかったです。
あんなふうになりたい、とずっと思っていました。
でも性格だから、そんなすぐに変われるものではないんですよね…。

 

他人からの評価を気にする必要はない byニーチェ

そんな時、目にしたのが「超訳 ニーチェの言葉」という本でした。

他人の評価を気にしてはいけない
なぜなら、人間というのは間違った評価をされるのが普通だからだ。
間違った評価を信じてしまうと、自己認識も誤ったものになってしまう

というようなことが書かれてありました。

「気ぃ使いぃ」は周りからどう評価されるかを気にするというよりも、周りが自分のしたことでどんな気持ちになるかが心配になるんですが。
結局のところ同じかも。

なんだかすごくストンと落ちました。

そっか、「気ぃ使いぃ」としてやることはすべて意味をなさないんだ。
だって、相手のことを考えているつもりでも、そもそも私が相手のことを正しく認識できていないのが普通らしいから。
まず最初の段階で、ずれている
そして、万が一私が相手を正しく認識できていたとしても、今度は私のしたことを相手が意図通り正しく評価してくれないのが普通らしいから。

じゃあ、神経を過剰に使ってまで相手の気持ちを考える必要ないじゃん。

 

自分の価値観を基準に判断する

相手の気持ちを勝手に仮定して、よかれと思ってやったことも、どう評価されるかわからない
それなら、自分自身がいいと思うことをぶつけよう
そう思うようになれました。

ちょうどそのタイミングで、保育園の担任の先生が退職されることになりました。
お世話になった先生に、クラスみんなでメッセージカードを渡したいと思ったんです。
でも、保育園ってお迎えの時間はバラバラで、クラス20人のうち話したことがあるママは5人くらいしかいない。
そんな中で「メッセージカード作りましょう!」って言ったら、出しゃばりだと思われるかも、って少し前なら躊躇したと思うのですが。
自分がやりたいんだったら声をかけよう、と動きました。
そしたら、会ったことのないママ達も協力的で、とてもスムーズにまとまったんです。

自分がいいと思うことを軸に提案すれば、例え批判的な意見が出ても、汲み取って吸収してまとめ上げることができる

これまでみたいに、自分としては本意ではないやり方をして反論されたら、そこから考え直すのって難しくて、凹んでいたに違いありません。
判断基準としていたみなさんの気持ち以外によりどころとなるものがないわけなので。

 

自己中になるのではなく、自分を相手と対等にしてあげる

もちろん、自己中心的にいろいろやっちゃえ!というわけではなく。

「気ぃ使いぃ」でなくても、周囲への配慮にあふれた人はたくさんいます。

相手が好きだろうからしてあげるんじゃなくて、私がいいと思うからする。
相手だったらこう判断するだろうじゃなくて、私が適切だと思う決断をする。

そして、そのうえで相手や周りの意見を聞き、ブラッシュアップしていく。

相手や周りの意見をくみ取るのはこの段階で十分なんです。

もうちょっと自分を信じてあげてよかったんだな、と今思います。

↓ぽちっと応援お願いします★


にほんブログ村

モバイルバージョンを終了