「常識」が通じない子どもの感覚を大切にしてあげたい

子育てをしていて、私が一番苦手なのが、子どもには常識が通らないということ。
「考えたらわかるでしょ!」ということが、わかりません。

・言ってはいけないことを、言ってはいけない場面で言ってしまう。
(電気屋の店員さんの前で、「どうせ安いからネットで買うんでしょ?」とか)
・大きく切ったみずみずしすぎるスイカにかぶりつきながら、気になるテレビに近づいて行ってしまう。
(何のために首から大きなタオルをぶらさげて食べ始めたんだっけ…)
・布団をかぶっている上から身体を思いっきり踏まれる
(どこまでが身体か、そろそろ感覚をつかんで欲しい…)

もちろん、これらはわざとではなく。
まだ、人間社会の「普通」が身についていないが故のことなのです。

 

子どもは心配しなきゃいけないことがたくさん

「普通に考えたらわかること」がまだふわふわしている子どもたち。
気楽でいいな、と思いきや、そうでもありません
「それはまず大丈夫だから!」ということも確信が持てなくて、心配しなきゃいけないんです。

たとえば、外出先で娘とお手洗いに行った時
個室が狭くて中で待たせられない時は、ドアの外で待ってもらうことがあります。
そうすると、ドアが閉まった瞬間に「ママ!ここだよね?」という確認が入ります。
「うん、そうだよ」と言った数秒後には「ママ!いるよね?」という確認が断続的に。

今、目の前でこのドアを閉めたんだから、ここに決まってるよね。
そして、そんな特殊な能力を持っていないんだから、娘が今触っているドアから出てきていないのであれば、この中にいるに決まってるよね。

でも、ちょっと返事が遅れたらパニックです。
ただ単に、声を聴いて安心したい、というのもあるのかもしれませんが…。
大人からすれば、そこはまず大丈夫でしょ!というところも心配しなきゃいけなくて、大忙しです。

それに対応するのもいい加減飽きそうになる時もあるのですが、子どもも必死なのでがまん。

 

子どもには、まだ決まった型がない

そういう娘を見ていて思い出したのが、「ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙」という本のことでした。

もうずいぶん前に呼んだので、曖昧な記憶に頼ったざっくりなまとめですが…。

人は成長するにつれて、既成概念を習得していき、それに当てはめて物事を判断する。
だから私たちは、人が何の道具も使わずにふわふわ空に浮かんで歩いているのを見たら、とんでもなく驚く
でも、生まれて間もない赤ちゃんは、既成概念なんていうものは持っていないから、ふわふわ浮かぶ人を見ても、普通に道を歩く人を見るのと同じ感覚で捉えるだけで、驚くことはない

娘からすれば、閉まったばかりのドアの向こうでママが隣のトイレに移動するかもしれなくて、少ししたらドア以外のところから出入りしてどこかへ行ってしまうかもしれない。
大人は何千回、何万回も、トイレの個室の出入りについて経験していて、例外がないことを確信しているけれど、まだ数百回くらいしか経験のない幼児には、何か他の道があるかもしれない、と思うのは当然なんだ、と思いました。

そう思うと、心配しすぎる娘の感覚がとても新鮮で尊いものに思えてきます。

 

凝り固まっていない感覚を大切にする

「普通こうだよね」がなくて、何事もまっさらな目で捉えられるのは子どもにしかできないこと。
その素直な感覚を大切にしてあげたいです。
必要以上に心配することも、なぜかとても面白がって繰り返しやりたがるのも、何が不思議かわからないけれど「なんで?」と確認されるのも。

大人の社会でも、新入社員が入って来た時や人事異動があった時などに「新しい風を期待している」とよく言いますよね。
これまでの組織に馴染んでしまった人には出せないアイデアや価値観を持ち込んでもらうことで、何か新しいものを生み出してほしい、ということです。

でも、不思議な事に、その言葉とは裏腹に「いや、それはできないから」とか「うーん、ちょっと違うんだよな」と結局それまでのしきたりや過去事例で判断されることが少なくなかったりするんですけど。

人はつい慣れ親しんだ感覚を優先しがちで、しかもそのことに気づくことすら難しくなっています。
ふと、そのことに気づけたら、世界の違う側面が見えて興味深いということを娘は教えてくれました。

当たり前のことに「なんで?」が重なって面倒になると、つい「そう決まってるんだよ」と言いたくなりますが、なるべく避けるように…頑張りたい…よ。

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